私は、現在某電器メーカー会社の顧問をしております。

私が生まれたのが「満州事変」勃発の年。東北の農家の長男坊として生まれ、ひっそりと貧しい生活を送っておりました。


そんな中、日本が「大東亜の繁栄」と「欧米諸国のアジア侵略」を阻止するため、

戦争に突っ走り始めた歴史が、私の幼少年時代とぴったりと重なりました。

戦争を賛美し、兵士を英雄扱いし、「御国の為に」を合い言葉に、誰もが気持ちを一つに突き進んでいたように思います。

私も農家の長男坊として、春は田植え、秋は稲刈り、冬はわらじ作りの仕事を、幼い頃から家族の一員として手伝いながら、

一方で勉学に力を入れ、周囲の者に負けるものかと頑張りました。

田舎の学校でしたが、私は常に成績は学年で「首席」を維持し、

校長先生からも毎年のように全校児童の前で表彰を受けたものでした。

私はある日担任の先生から、

「おまえは、将来兵隊さんになりたいか?」と、尋ねられました。

私が、戦争を賛美する当時の少年雑誌を好み、「兵隊ごっこ」で隊長役をして、

他の子どもたちの先導役になって遊んでいる様子を御存じだったようです。

「はい、兵隊さんになります。」

「そうか、では、幼年学校に行く気はないか?」

「えっ。」

「えらい隊長さんになって、御国の為に尽くしてみたくないか?」

私は、自分のような百姓の倅でも、学力優秀で努力さえすれば、

必ず「幼年学校」に入学できると聞かされ、その日から「目標」に向かって頑張ったのです。

父や母も先生の御言葉を聞かされ、私の「目標」実現のため協力をしてくれました。

私は全国一の難関と言われた「東京陸軍幼年学校」を受験することとなりました。

終戦のニ年前のことです。

受験者は約九千人。宮家・軍人子息等の特待生を除く、一般からの合格者定員は僅か五十名程度でした。

受験は学科・面接と身体検査。冬の厳しい寒さの中で受験は実施されました。

十三歳の受験者が最年少ですが、二度目・三度目の受験者は十四・十五歳と随分大柄でした。

私は、十二月生まれでしたから十三歳になったばかりでした。

身体検査は、講堂で行われました。全員ふんどしだけ身に付けた全裸に近い格好で集合させられました。

身長・体重・視力等、順々に検査が進みます。

壇上には、日本刀を持った、立派な髭を生やされた兵隊さんが三名座って、

私たちの検査の様子を御覧になっておられたように思います。

ずっとふんどし姿で検査を続けましたが、軍医殿の「触診」の列に並んだときには、

唯一体を被っていた最後のふんどしさえも外すように命ぜられました。

外したふんどしを小脇に抱え、性器を丸出しにした状態で、「蹲踞の姿勢」で待機するように言われるのです。

受験生は、軍医殿の前に両手を後ろに組み、両足を軽く左右に開いた格好で立たされます。

皮を被ったままの者は、包皮を剥き上げられました。

できない者は、カルテに「包茎」と記されたようです。

何人もの受験者がいますから、かなり手荒く強引に剥き上げられていたようです。

「性病」の有無を調べると称し、膿が出ないかと一物をギュッ、ギュッと二、三度しごかれました。

睾丸を袋の中でぐりぐりと転がされ、これもかなり手荒く機械的に触診されていました。

包皮を剥かれ、睾丸をまさぐられ「ウッ。」とか「イテッ。」などの呻き声が、

何人もの受験生の口から漏れ出ていたのを記憶しています。

最後に「痔疾」の検査と称して、四つん這いになって、肛門の様子を検査していただくと終了。

だいたい、全国の優秀かつ真面目な志願生に「性病」検査等必要だったのかどうかはさておいて、

軍人として、兵士として、国家や上官の命令や規律の中においては、

個人の尊厳や権利等は皆無に等しいことを身を持って知らしめるための儀式であったと考えられます。

検査の様子は列の後ろに控えている受験生全てに見られているわけで、顔を真っ赤にしている初な生徒も沢山おりました。

当然のことながら自然の仕組みに逆らえず見事に「勃起」させてしまっている者もおり、

「蹲踞」の姿勢を崩し「勃起」を見られまいと、足を閉じ、見回りの検査官に指摘を受け、

無理矢理足を開かされ「勃起」を暴露され、「日本男児、何が恥ずかしいか。」と、

持っていた竹刀の先で、勃起をチョンチョンとつつかれて顔を赤らめて項垂れる生徒もおりました。

恥ずかしながら、この受験のおり、

ある華族の子息と言われる受験生が格段の美少年でありまして、私の目を釘付けにしてしまいました。

ずっと、私のひとつ前に並んでおり、当然「触診」も私の目の前で行われました。

細目の体に不釣り合いな程、太くて長い一物をぶら下げておりましたが、軍医殿の手でくるくると包皮を剥き上げられ、

桃色の鮮やかな亀頭を露出させられると、肛門検査の際に振り向いた彼の一物が、

私の眼前にはっきりと焦点化され脳裏に焼き付きました。

私はどきどきと胸が高まり、ぽーっと紅潮してしまいました。

そして、自分の一物が変化し始めたことに気付き、焦りました。

自分の意志とは裏腹に抑えようのない自然の摂理を恨みながら、自分の番を迎えることになりました。

私の「勃起」を彼はチラリと覗き見た後、その場を去りました。

勃起したまま軍医殿の前に立ちますと、

「元気がよいのー。」と、微笑みながら指でぴょこんぴょこんと私の固くなった一物を弾きました。

軍医殿は次に、勃起の先端を摘むと一気に包皮をずり下げました。

すると、ピカピカの桃色亀頭のくびれのところに包皮が輪ゴムのようにきつく食い込みました。

「うーん、きつそうじゃのー。このままじゃ苦しいわな。」

軍医殿が包皮を賢明に元に戻そうと努力してくださいました。

なかなか、食い込みがきつく時間がかかりました。

やっとのことで元の皮かむりの一物に戻りましたが、勃起の度合いは、へそに付かんばかりに最高潮に達していました。

軍医殿、検査官、そして多くの受験生に恥ずかしい姿を披露し、私の受験は終了しました。

身体検査においては、「甲種合格」を頂き、「学科」「面接」も良好な成績をあげ、難関を突破し、

晴れて「星の生徒(幼年学校生徒のことを当時こう呼んだ)」の座を勝ち取ったのであります。

入学後の寮生活で、思春期の男だけの世界の中で様々な経験をすることになりました。

風呂場での一物くらべ。

部屋での相互自慰。

先輩からの無理自慰?

真面目で一途な学生生活の奥底で、教官の目を盗んで「性」のエネルギーを発散させていたのです。

私も、同じ東北出身の商家の倅である後輩の美少年を便所の中で、強制的に「射精」させたことがありました。

「自慰は未だ、経験がありません。」

という彼に、便所の個室の中で、まず自ら手本を見せ、その後、手を貸してやり、放出させてやったのであります。

「先輩」は幼年学校においては「上官」と同じで、逆らうことなど到底不可能でありました。

幼年学校入学二年後、広島・長崎に原子爆弾が投下され、日本国は「ポツダム宣言」を受諾。

事実上、敗戦の経緯をたどるのであります。私たち生徒も士官学校に進む前に閉校、解散。

悔しさに豪泣しながら、郷里の東北へ汽車で戻ったのを今でも鮮明に覚えています。

その後、私は東大を卒業し、某電器メーカーに就職。

二度の海外勤務と重役経験を経て、現在は顧問としてひっそりと余生を過ごしております。

今は、パソコンをいじり、インターネットを開くのが趣味になっております。

幼年学校時代の「少年愛」の性癖は今も変わらず持ち続けておる次第であります。